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や行

「自分が1日休むと、日本が1日遅れます」古市公威

有職読み(ゆうそくよみ)

 藤原定家を「ていか}と読むなど、歌人の名を音読みすることでした。

近代ではそれをまねて、有名人の名を音読することも有職読みというようになったようです。 

有職読みは諱(いみな:下の名前)に使われる用語であり、姓に対しては使われません。

現在では多くの政治家、創作家、芸能関係者など、広く一般の人に名前を呼ばれることの多い人物が、本来の読みがわからないときに音読みで呼びかけられることが多いです。

 

人 物 音読み 本来の読み 備 考
藤原定家 フジワラノテイカ サダイエ 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。「小倉百人一首」の選者
伊能忠敬 イノウチュウケイ タダタカ 江戸時代の事業家・天文学家。49歳で隠居し、50歳の時に江戸に出て、天文・暦学を学んだ。寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の17年をかけて日本全国を測量し、「全日本沿岸輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
二宮尊徳 ニノミヤソントク タカノリ 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。生涯に615の村を立て直したといわれています。武士の位を授けられて尊徳と改名するまでは金次郎。
木戸孝允 キドコウイン タカヨシ 桂小五郎。革命家。萩藩医和田家に生まれる。7歳で桂家の養子となり、武士の身分を取得。吉田松陰に師事。剣術修行を名目とする江戸留学を藩に許可され、三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となる。維新三傑の一人。慶応2年、長州藩の代表として、坂本龍馬の仲介により京都で西郷隆盛と薩長同盟を締結。薩長主導による武力討幕を成し遂げ、新政府を樹立。版籍奉還・廃藩置県を推進。明治4年(1871年)岩倉使節団の全権副使として欧米を視察、帰国後は内治優先を主張して征韓論に反対する。明治10年、西南戦争中に病死。享年45歳。墓所は坂本龍馬や中岡慎太郎など多くの勤王志士たちと同じく、京都霊山護国神社にある。
榎本武揚 エノモトブヨウ タケアキ

武士、化学者、外交官、政治家。

伊能忠敬の元弟子であった榎本武規の次男として生まれる。

榎本武揚(釡次郎)の兄の名は鍋太郎であったが、これはは父親が「鍋と釡さえあれば食べていけるだろう」として名付けた。

15歳で昌平坂学問所(昌平黌)に入学し、ジョン万次郎の私塾で大鳥圭介らと英語を学ぶ。

1854年、19歳のとき、蝦夷地・函館に赴き、樺太探検に参加。

安政3年(1853年)、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所し、国際情勢や蘭学、航海術、化学などを学ぶ。

文久2年(1862年)から慶応3年までの5年間、オランダに留学する。オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだほか、1864年、デンマーク戦争を観戦武官として観戦。

慶応3年(1867年)3月、横浜港に帰着。

幕府から海軍副総裁に任命され、実質的に徳川海軍のトップとなる(31歳)。

徳川慶喜が大政奉還を行い、鳥羽・伏見の戦いが起き、続いて戊辰戦争が起きる。

新撰組副長の土方歳三らと五稜郭を占拠し、「蝦夷共和国」樹立を宣言。士官以上の選挙により総裁に就任。

新政府軍は旧幕府軍に降伏勧告の使者を送るが、榎本らは拒否したが、オランダ留学時に入手した「海律全書」を黒田清隆に届けさせた。この時から、黒田と榎本の奇妙な友情が始まった。

函館戦争の実質的な戦闘期間は2か月ほど。

榎本は属の首謀者として捕縛される。

2年半の収監後、明治5年、敵将・黒田清隆の尽力により特赦で出獄した榎本は、駐露特命全権大使として「樺太・千島交換条約」の締結を実現するなど、目覚ましい活躍をする。

明治7年、榎本は駐露特命全権公使に任命され、ロシアとの領土交渉にあたり、約1年間の交渉の末、「樺太・千島交換条約」を締結するに至りました。この条約により、樺太全党は日本が領有することが決まりました。

明治24年、北海道開拓に関与した経験から、徳川育英会育英学農業科(現・東京農業大学)を創設し、自ら学長となる。

明治32年4月、黒田清隆の娘と、長男・榎本武憲が結婚

明治33年、盟友・黒田清隆の葬儀委員長を務める。

明治41年7月逝去。享年73歳。

福沢諭吉は、榎本武揚と勝海舟の変節ぶりを厳しく批判しています。「二人とも、徳川幕府より禄を得て要職にあった」にもかかわらず、維新後には仇敵だった新政府に仕え、榎本などは立身出世の街道を歩んでいる。これらは、武士の風上にも置かれぬことだ」という具合です。

徳川慶喜 トクガワケイキ ヨシノブ

生没年 天保(1837年)8年9月29日~大正2年(1913年)11月22日。享年77歳。

号・別称 一橋慶喜

愛妾・お芳(新門辰五郎の娘)

第9代水戸藩主・徳川斉昭と母・登美宮吉子女王の7男として生まれた。

英邁さで知られ、「権現様の再来」とその英明をたたえられた。

1847年、安倍正弘の口添えによって慶喜は11歳で一橋家を相続する。

文久2年(1862年)、将軍後見職となる。

江戸幕府第15代将軍。徳川最後の将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて徳川慶喜が長州征伐の勅許をえた。

12月、将軍に就任。

慶応3年10月、大政奉還を行い、徳川幕府の復権を図るも、討幕派に破れ恭順、謹慎。

慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発。戦いの最中に大阪から江戸へ退去したことは、「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。

明治2年(1869年)、謹慎解除。

明治35年(1902年)、大政奉還が高く評価されるようになり公爵に叙せられ、貴族院議員にも就任し、35年ぶりに政治に携わった。

実業家の渋沢栄一と親交がありました。

父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉が好きな一橋様」の意)と呼ばれていた。

伊藤博文 イトウハクブン ヒロブミ  
原敬 ハラケイ タカシ

生没年 1856年3月15日~1921年11月4日(享年65歳)

出生地 現・岩手県盛岡市(南部藩の家老の家に生まれた)

出身校 司法省法学校(現在の東京大学法学部)(退学)

ジャーナリスト、政治家、首相。

明治から大正時代に活躍した政治家。伊藤博文に信任されて立身。陸奥宗光にも認められる。

エブラルという宣教師から、フランス語、歴史、世界の情勢、人間の生き方まで幅広く学ぶ。

薩長を中心とする藩閥政治を打破して、政党政治へと脱皮することに、政治家としてのエネルギーを注ぎ続けた。藩閥打倒の戦いは、山形有朋閥との戦いでもあった。

所属政党 立憲政友会。

第19代内閣総理大臣。

平民宰相(平民出身の初めての総理)の名で親しまれ、国民の圧倒的人気を集めていた。

政党政治を実現した最大の功労者。

大正10年、東京駅で暗殺された。

「わけ入りし 霞の奥も 霞かな」

原はよく「宝積」という言葉を揮毫した。仏教用語で「尊いものを積み重ねる」という意味。

浜口雄幸 ハマグチユウコウ オサチ

生没年月日 1870年(明治3年)4月1日~1931年(昭和6年)8月26日。

山林官を勤める父の水口家の3人兄弟の末子として、高知県に生まれる。

幸雄と命名していたが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、酩酊状態となり、名前を前後逆に記入した届が受理されて雄幸となった。

五台山唐谷は、浜口が生まれ少年時代を過ごしたところである。「浜口雄幸生家を補修復元する会」によって、生家が復元され、1994年4月1日、雄幸の誕生日に開館された。雄幸が精神の形成期を過ごしたこの土地には、今もそのころの雰囲気が漂っている。

1889年、素封家・浜口義立の長女夏子と結婚し、浜口家の養嗣子となる。

出身校 帝国大学法科大学(1895年卒業)

大蔵省に入る。

官僚人生を歩んでいた浜口を政界に引き入れたのは、後藤新平。

三菱財閥と太いパイプを持つ。戦前の政党政治はこのような面をもっていた。

官僚出身の政治家の多くが爵位を得て貴族院議員になるのに対して、浜口は衆議院議員にこだわり続けた。

1929年(昭和4年)、田中儀一内閣の総辞職に伴い、浜口雄幸立憲民政党内閣が成立。政治空白は許されないとしてわずか1日で組閣を行った。

第27代内閣総理大臣

その風貌から「ライオン宰相」というあだ名が付けられた。

天皇のお気に入りでもあった。

剛直で正直、清貧の浜口首相は世間から支持された。

1930年、ロンドン海軍軍縮会議で条約を結ぶ。条約の締結に一部の海軍関係者が納得しておらず、是が統帥権干犯問題として浮上してゆく。

財界から信任のある井上準之助前日本銀行総裁を蔵相に起用して、経済再建のため、金解禁(金本位制復活)を断行。

当時、日本経済はデフレの真っ只中にあり「嵐に向かって雨戸を開け放つようなものだ」とまで批判された。

緊縮財政と軍縮に取り組んだ。浜口の考え方の基礎には「いくら軍備を拡張しても国力の差から英米と戦って勝利することは不可能である」というリアルな現実認識があった。

日本の首相では初めて、当時最新のメディアであったラジオを通じて国民に直接自身の政策を訴えた首相でもある。

浜口の目指す方向は、中国における特殊権益の拡大や軍備拡大こそが日本の安全と利益につながると考える軍部や右翼勢力と対立するものだった。

前年の1929年にアメリカで大恐慌が始まっていたというタイミングの悪さもあり、景気は予想以上に減速する。

1930年11月14日、東京駅ホームで、統帥権干犯に憤った青年に銃撃された。

当時、原敬暗殺事件以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していたものの、首相自身の「人々に迷惑をかけてはならない」との意向により、立ち入りは制限されていなかった。

浜口の口癖は「男子の本懐」で、彼が暴漢に狙撃された時もこの言葉をつぶやいたといわれている。

この事件は、政府要人が次々と暗殺の標的となった五・一五事件、二・二六事件へと連なる前兆であり、日本が軍事国家へと変貌を遂げていくきっかけとなった。

大野伴睦 オオノバンボク トモチカ

1890年(明治23年)9月20日~1964年5月29日(73歳没) 

岐阜県出身。

出身校 明治大学政治経済学部

昭和時代の政治家。代表的な党人派政治家。

1930年、衆議院議員に当選。40年の翼賛選挙に非推薦で落選したほかは、その死まで当選13回を数えた。

「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、政治家は、選挙に落ちればただの人」などのの名言を残す。

大野は新幹線を迂回させることのない岐阜羽島駅を誘致し、岐阜羽島駅前には大野夫妻の銅像が立っています。

力道山の後援者であり、プロレスコミッショナーも務めた。

山崎 拓 ヤマサキタク ヒラク

生年月日 1936年(昭和11年)12月11日

出生地 関東州大連市(現在は中華人民共和国の大連市)

小学校3年生の時に、片目を失明し、隻眼となる。

出身校 早稲田大学商学部

柔道6段、囲碁5段、日本ソフトボール協会の会長

1972年、秀銀議員初当選以後12回当選(福岡2区)

加藤紘一、小泉純一郎と並ぶYKKの一角。

2000年、加藤紘一とともに森内閣の倒閣運動をしたため失脚(加藤の乱)。

2001年~2003年 自民党幹事長

2003年、衆院選に出馬したが、愛人疑惑報道などの影響で落選。

近未来政治研究会、最高顧問。

何事にもチャレンジし、あきらめないことの大切さを「CAN DO精神」という言葉に集約する。

山崎が尊敬する人物は、東京裁判においてA級戦犯として死刑になった元首相の広田弘毅。山崎の母校・修猷館(しゅうゆうかん)高校の大先輩。

著書「憲法改正-道義国家をめざして」

菊池 寛 キクチカン ヒロシ

生没 1888年(明治21年)12.26~1948年(昭和23年).3.6(59歳没)

香川県高松市生まれ。7人兄弟の4男。

代々高松藩儒学者の家柄。

中学のとき、図書館の蔵書2万冊を2年間で読破する。

出身校 京都帝国大学英文科

小説家、劇作家、実業家。

1923年、私費で雑誌「文芸春秋」を創刊。定価は10銭で、「中央公論」が1円、「新潮」が80銭の時代に破格の安さだった。

1929年、日本麻雀連盟の初代総裁。

1935年、芥川賞、直木賞を設立。

1938年、菊池寛の提唱により、先輩作家の業績をたたえ、敬意を表するための賞として「菊池寛賞」を制定。

第62回菊池寛賞は、タレントのタモリが受賞した。

戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有した。

1943年、映画会社「大映」の社長に就任、国策映画作りにも奮迅した。

個人的には、横光利一、川端康成、小林秀雄らに金銭的な援助を行った。

「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」

喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなく、畳やいすのひじ掛けでたばこをもみ消していたため、家じゅう焼け焦げだらけだったらしい。

代表作 「屋上の狂人」「父帰る」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」「真珠婦人」

正妻以外に多数の愛人を持っていたとされ、そのうちの一人に、「小森のおまちゃま」で親しまれたタレントで映画評論家の小森和子もいた。

菊池寛記念館

 香川県高松市昭和町Ⅰ-2-20 サンクリスタル高松3F

 ℡ 087-861-4502

横光利一 ヨコミツリイチ トシカズ

生没 1898.3.17~1947.12.30(49歳)

福島県北会津郡生まれ。

大正・昭和時代の小説家。

出身校 早稲田大学政治経済学部除籍

菊池寛に師事。

川端康成らと「文芸時代」を創刊。新感覚派として活躍。

代表作 「日輪」「蠅」「春は馬車に乗って」「上海」「旅愁」「微笑」

松本清張 マツモトセイチョウ キヨハル

生没 1909年12月21日(2月12日)~1992年8月4日(82歳没)

福岡県小倉市生まれ(戸籍上)

最終学歴 板櫃(いたびつ)尋常高等小学校

小説家(42歳で作家の道へ)

700以上の作品を発表

印刷工など種々の職を経て朝日新聞西部本社に入社。

ミステリー作家として著名ですが、単なるミステリーにとどまらず、そこに深い人間ドラマが描かれているのが松本清張作品の魅力です。

文芸春秋とは、芥川賞受賞以降、晩年まで密接な関係を持ち続けた。

代表作 「西郷札」(デビュー作)『或る「小倉日記」伝』(芥川賞受賞)「点と線」(大ベストセラー)「眼の壁」「昭和史発掘」(吉川英治文学賞)「ゼロの焦点」「黒い画集」「わるいやつら」「けものみち」「砂の器」「黒革の手帳」「昭和史発掘」(菊池寛賞)「日本の黒い霧」

 ➡【座談会】異なる世代のファンが「松本清張」を語る 

 ➡北九州市立松本清張記念館

安倍公房 アベコウボウ キミフサ

生没 1924/37~1993/1/22

東京府生まれ

満州から帰国し、旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。成城始まって以来の数学の天才と称された。

最終学歴 東京大学医学部卒業

小説家・劇作家・演出家

作品は海外でも高く評価されている。特に共産主義国の東欧において高く評価され、西欧を中心に評価を得ていた三島由紀夫と対極的とみなされた。

日本人で最も早い時期からワープロで小説を執筆した作家の一人。

ノーベル文学賞を選考するノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長は、「安部公房は急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」と述べている。

2013年、女優の山口果林が自身のエッセイ「安部公房とわたし」で、安倍との20年以上にわたる愛人関係を公表しました。

代表作

・壁(芥川賞)

・棒になった男(芸術祭奨励賞)

・砂の女(読売文学賞)(最優秀外国文学賞)

・他人の顔

・燃えつきた地図

・箱男

・緑色のストッキング(読売文学賞)

西村 望 ニシムラボウ ノゾム

出生 1926/1/10(大正15年)

香川県香川郡雌雄島村大字男木(男木島:おぎじま)、生まれ

小説家。

西村寿行(小説家)は実弟。

父親の仕事の関係で、少年時代は満州で育つ。

大連市乙種工業高等学校を卒業後、南満州鉄道で勤務した。

52歳で小説家としてデビュー。

デビュー後は犯罪小説が中心だったが、90年代に入り、江戸を舞台とした捕物帳が中心に執筆された。

代表作

・鬼畜(処女作)

・薄化粧

・丑三つの村

・刃差しの街

・犬死にせしもの

西村寿行 ニシムラジュコウ トシユキ

生没 193011/3~2007/8/23

香川県香川郡雌雄島村大字男木(男木島:おぎじま)、生まれ。網本の家の7人兄弟。

小説家

長兄が西村望

トラック運転手、速記者、業界紙記者、映画製作、薬品会社のプロパー社員、白タク運転手、小料理屋など20を超える職業を経験するがいずれの仕事も長続きしなかった。

寿行の作風は、動物小説、ハードボイルドなアクション小説、パニック小説、社会派小説など、幅が広く、いずれも読者を引き付ける。

同時代の人気作家である半村良、森村誠一とともに「三村」と呼ばれた。

酒好きで、バーボン・ウイスキーのアーリータイムスを毎晩ボトル半分飲む生活を続けた。

代表作

・犬鷲 第35回オール読物新人賞佳作(選考委員:池波正太郎、黒岩重吾、瀬戸内晴美、近藤啓太郎、新田次郎)

・瀬戸内殺人海流

・風は凄愴(せいそう)

・安楽死

・滅びの笛

・屍海峡

・去りなんいざ狂人の国を

・鯱シリーズ

・鬼

・悪霊刑事

・癌病船シリーズ

・世界新動物記

・瀬戸内殺人海流

・君代憤怒の河を渉れ 映画「マンハント」の原作になる

・犬笛 寿行の一人娘が幼いころに交通事故で骨折してパニック状態に陥ったことがヒントになった

藤本義一 フジモトギイチ ヨシカズ

1933/1/26~2012/10/30(享年79歳)

大阪府堺市出身。

少年飛行兵を目指して1945年(昭和20年)5月に航空機搭乗員養成所に入るが、終戦となる。

大阪府立大学経済学部卒。

在学中から「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価されていた。

作家。司会者。

ラジオやテレビの脚本は300本以上制作。

妻はエッセイストの藤本統紀子。

テレビでも長年活躍。「11PM」は、放送開始から25年にわたって毎週2回担当した。ただし、「11PM]の司会を始めてからは、放送局からの脚本の注文は途絶えたそうです。

1964年から、芦屋雁之助らが結成した劇団「喜劇座」の脚本を担当。「裸の大将放浪記」など。

代表作 「鬼の詩」(1974年)(直木賞受賞)

「流行語大賞」審査委員長などを務めた。

阪神・淡路大震災では、自ら被災しながらも、震災で親を失った子供たちが集い触れ合える施設「浜風の家」を立ち上げるなど、民の力を発揮した。

司馬遼太郎は藤本義一のことを「ギィちゃん」と親しみを込めて呼んでいたそうです。

座右の銘は「蟻一匹、炎天下」。

猪俣公章 イノマタコウショウ キミアキ

生没 1938年4月11日~1993年6月10日(55歳没)

福島県河沼郡会津坂下町出身。

学歴 昭和36年、日本大学芸術学部音楽科卒。

作曲家。作詞家。

開成高校卒業時、実家の家計が苦しくなったため、入学金を作るために1年間の浪人生活を送る。喫茶店のボーイ、ペンキ職人、バーテンダーなどを経験する。

古賀政男に師事。

森進一のデビュー曲「女のためいき」や、「港町ブルース」(売上枚数250万枚)「おふくろさん」「冬の旅」「ひとり酒場で」「さざんか」などを作曲。

五木ひろし「千曲川」(作詞・山口洋子)(第17回日本レコード大賞)「愛の始発」

内山田洋とクールファイブ「噂の女」

水原弘「君こそわが命」(水原弘を再起させる)

藤恵子「京都から博多まで」「女のブルース」

テレサ・テン「空港」(第16回日本レコード大賞)

都はるみ「おんなの海峡」

西川峰子「峰子のマドロスさん」

野村真樹「一度だけなら」

坂本冬美「祝い酒」

増沢末夫「さらばハイセイコー」

海原千里・万里「大坂ラプソデー」

作曲した曲は2千曲を超える。

古賀政男、服部良一らが第一世代、吉田正、船村徹、遠藤実らが第二世代、猪俣公章、平尾昌晃、中村八大、いずみたくらが第三世代と呼ばれる。

坂本冬美とマルシアの二人の内弟子を育てました。

1991年に19歳年下の一般女性と結婚し一子を設けるが、1993年に肺がんのため死去した。

 

要物契約

 当事者の合意の他にも、物の引渡交付などの給付があって初めて成立する契約です。

物の引渡自体が契約締結の条件となりますす