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あさみ ちゆき
本名 山本陽子
生年月日 1978年1月11日
血液型 A型
学歴 柳井商業高等学校
好きなアーティスト ちあきなおみ、ケイト・ブッシュ(イングランド出身のシンガーソングライター)
「あさみ ちゆき」という個性的な名前の由来は、故郷の朝の海の景色が好きということから名字の「あさみ」。「ちゆき」は若くして亡くなった兄の名前「智幸」からだそうです。私は、名字が「あさみち」、名が「ゆき」と当初は思っていました。
東京都・井之頭公園で月1回のペースでストリートライブを続け、「井之頭公園の歌姫」と呼ばれて親しまれています。
ストリートライブでスカウトされ、2003年4月にテイチクレコードより「紙ふうせん」でデビューしました。
「第49回日本レコード大賞・日本作曲家協会奨励賞」「第41回日本有線大賞・有線音楽賞」など数々の賞を受賞しています。
山口ふるさと大使、光きらめき大使、伊那市(長野県)観光大使、武蔵野市観光機構親善大使、新得町(北海道)観光大使を経験する。
光市で「あさみちゆき応援団」が結成され、団長には末岡泰義前・光市長が就任しています。
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伊藤博文(ひろぶみ)
「ハクブン」と有職読み(ゆうそくよみ)することもあります。
生没年 天保12年(1841年)9月2日~明治42年(1909年)10月26日
享年 69歳
生誕地 周防国熊毛郡束荷村(現・光市)
墓 東京都品川区西大井
周防国熊毛郡束荷村(現・光市)の農家に生まれ、父林十蔵が萩藩の下級武士の養子となり、伊藤姓を名のる。
幼名は利助、のちに吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔を名のる。
長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。
文久3年(1863年)、井上馨(聞多)らとロンドンに秘密留学。留学をきっかけに、開国・倒幕に論を転じる。
元治(げんじ)元年(1864年)3月、英米仏欄4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに帰国し、戦争回避に奔走したが、8月5日に下関戦争が勃発した。
明治維新後は伊藤博文と改名。
明治4年(1869年)、岩倉使節団に副使として参加。欧米12か国を視察。
明治15年~明治16年、憲法制度調査の任を帯びて再び渡欧。プロイセンで憲法や内閣制度を学ぶ。
明治18年、内閣制度を創設し初代内閣総理大臣に就任。44歳2か月での総理大臣就任は、歴代総理の中では最も若い。
明治19年、官僚育成のために帝国大学(現・東京大学)を創設。
明治20年、井上馨らとともに、憲法草案の検討を開始。大日本帝国憲法起草・制定の中心となる。
明治22年2月、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布される。
首相4度。
日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により朝鮮の独立を清国に認めさせる。
明治37年から始まった日露戦争を巡っては、金子堅太郎をアメリカに派遣して、ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼した。これが翌38年のポーツマス条約(日露講和条約)に結びつく。
明治38年11月、韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任。
明治42年、ハルビン駅で韓国の民族主義活動家安重根により暗殺される。
死去に際しては従一位地位に叙せられ、国葬される。
伊藤の女好きは有名である。「箒」(女が掃いて捨てるほどいたため)というあだ名が付けられていたらしい。
梅子夫人が博文の訃報を受けたとき、涙一つ落とさず、「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死に方はできぬ、敷居をまたいだ時から、是が永久の別れになると思ってくれ」といっていたということだが
原田大二郎(はらだだいじろう)
本名も同じ
俳優
生年月日 1944年4月5日
出生地 神奈川県
星座 おひつじ座
血液型 O型
利き腕 左
サイズ 身長179㎝、体重85㎏
山口県立熊毛南高等学校を経て、明治大学法学部卒業。大学卒業後、劇団文学座ヘ入座。
1970年、映画「裸の十九才」(新藤兼人監督)でデビュー。
「いじめ撲滅キャンペーン」の公演を96年から始める。長男が中学時代に同級生たちからいじめに遭っていたことを告白した。「いじめ撲滅キャンペーン」の公演を96年から続けている。
松岡満寿男(まつおかますお)
1934年生まれ。
光高等学校普通科卒業。早稲田大学政治経済学部卒業。
満寿男の名は、大叔父の松岡洋右が「満州の満、ジュネーブ(寿府)の寿から名付けた。
1971年光市長選に当選。3期務める。83年から国政に転じ、参議院議員、衆議院議員を務める。
日本新党・細川護熙代表の側近として党代表幹事で活躍。
安倍、岸ともに松岡の遠縁にあたる。
松岡洋右(ようすけ)
生没 1880年(明治13年)~1946年
外交官、政治家。
室積の廻船問屋に生まれました。洋右が11歳の時に家業は倒産。
13歳で渡米し、苦学してオレゴン州立大学(クラスで2位という優秀な成績を収める)を卒業。
明治37年に外交官試験に合格し、領事館補や勅任総領事などを歴任。
国際連盟の脱退や日独伊三国同盟、日ソ中立条約の締結で中心的な役割を果たす。
昭和20年、
終戦とともにA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収容中、持病の肺結核が悪化し、翌年他界。
宮本顕治(みやもとけんじ)
生没 1908年10月17日~2007年7月18日(98歳没)
光市上島田出身。
日本の政治家、文芸評論家。通称:ミヤケン
出身校 東京帝国大学経済学部
配偶者 初婚・宮本百合子(1951年死別)、再婚・宮本寿恵子
肥料米穀商に生まれ、愛媛県の旧制松山高等学校から東京帝大経済学部に入学。
学生時代に書いた論文「敗北の文学-芥川龍之介」は雑誌「改造」の一等に入選。
昭和6年(1931年)、共産党に入党。
昭和8年、治安維持法により逮捕される。宮本は治安維持法違反だけでなく、日本共産党スパイ査問事件でも加害者として裁判で裁かれる。
『日本共産党の研究』立花隆
戦後、GHQの指令で解放されるまで12年間の獄中生活を送る。
元日本共産党議長。昭和33年(1958年)に書記長に就任以来、議長引退までの40年間、党のトップの座に居続けた。
村崎義正
生没 1933年3月7日~1990年2月23日
出生地 光市高須
元光市市議会議員。「周防猿まわしの会」初代会長。山口県部落解放運動連合会副委員長。「全国生活と健康を守る会連合会」を結成して、光市すべての困窮者の救済を目指す。
地区で一番裕福な家に生まれます。
1970年、光市議会議員に初当選。鼻つまみ者を自任し、押し売りや恐喝などの逮捕歴を隠さずに当選を果たしました。
義正は、俳優の小沢正一に出会ったことがきっかけとなり、議員を辞め猿まわしの復活に命をかけることを決意しました。
1977年12月2日、周防猿まわしの会を結成して初代の会長に就任します。
浮き草稼業的な芸能からの脱却を図るため、平成元年3月には芸能と観光を結びつけた阿蘇猿まわし劇場を開設し、猿回し継承の土台を築きました。
調教法開発の対象としたサルはニホンザルでなくインドネシア産のムーアモンキー「ゴロウ」でした。
調教師が猿に対して「人間が優位の立場にあること」を示すために、「猿を地面に押し倒して、背中を噛む」という方法は、村崎が独自に編み出した調教法です。
差別は差別を受けたものだけでなく、差別する側にとっても不幸な問題と提唱、垣根を超えた差別解消の運動に全人生をかけました。